チビが死んだ後、いつ頃かは記憶がはっきりしないが、小学校の下校途中、野良犬が家まで私について来た。当時は野良犬はどこにでもいて、おとなしい犬なら誰もとがめるようなことはない大らかな時代だった。
野良犬の捕獲の車(たぶん保健所の委託を受けた業者だったのではと思う)が来ることもあったが、そんな時子供たちは野良犬をかばって、追いやったり隠したりしていた。
その犬は柴犬よりやや大柄な犬で初代のハル公に似ていた。お腹が空いていたようなので庭に入れて食べ物を与えたら、勝手に我が家に落ち着くことを決めたようだった。親たちも飼うと決めたわけではなかったが、庭から出て行こうとしない犬を黙認していたように思う。
小学校にもいつも付いてきて、教室まで入ったこともあるが、さすがに教室からは追い出されていた。下校時になると、下足を履き替える場所のスノコの上で寝て待っていて、一緒に帰る毎日だった。
1ヶ月ほど後、おとなしくて良い犬だから、飼っても良いと言われクマと名付けたばかりのときに、急に自分で出て行って戻らなかった。やっぱり自由気ままな野良生活の方が良いと思ったのだろうか?四方八方探したが見つからなかったし、保健所も未登録の犬のことなど取り合ってもくれなかった。短期間の付き合いだったが思い出すと辛い。
残念ながらその犬の写真がない。
どうしても犬がいない生活が寂しくて、また犬を飼ってくれるよう両親に頼み続けていた数年後、向かいの家にはジャーマン・シェパードがいた。警察犬だったその犬とすっかり友達になって、たびたびその家の庭に侵入しては犬舎に入り込んでいた私に、とうとう両親も根負けして、警察犬になれる犬を飼いたいという私の頼みを聞いて、コリー犬を探してくれた。
向かいの家に習って、庭に8畳ほどコンクリートの土間を打ち、砂場もある犬舎を作った。中には1畳ほどの部屋があって敷き藁をたくさん入れた。これで一緒に寝ることも可能になった。
迎えた仔犬は雌で、死んだ猫の名を取ってエリーと名付けた。
それからが大変だった。
その頃は犬や猫の食事といえば、残飯や味噌汁かけごはんが普通で、まだドッグフードもなかった時代である。
しかし純血種の大型犬は食べるものから違うと言われ、警察犬の訓練士さんのアドバイスを受けたところ、「コリーは胃腸があまり丈夫でないから、肉はビーフの赤身だけを生で、食パンも耳のところは消化に良くないので、白い柔らかいところだけを千切って、卵も黄身だけを、それにエビオスと第2燐酸カルシウムをかけて・・・」その頃はまだ肉も卵も貴重品だったから、大変なことになった。おかげでそのころから我が家の食卓には卵の白身ばかりがよくでたし、おやつはパンの耳を揚げて砂糖をまぶしたものが多くなった。何と今度は犬の残飯を食べることになったのだ。
残念なことに、この頃のアルバムもどうしても見つからない。
成長したエリーは、向かいのジャーマン・シェパードと一緒に警察犬の訓練所に通うようになった。もちろん私もその訓練所によく行った。そして何とエリーは警察犬のコンテストで優勝したのだった。
その後訓練所の薦めで、繁殖をすることになり、犬の出産を初めて経験した。
洗面器にお湯を入れ、タオルをたくさん準備し、胎のうやへその緒を切るためのハサミを片手に徹夜をした。生まれた仔犬は8頭、皆元気に育った。
3ヶ月ほどは我が家にいたので、その頃は通いの犬を含めると12頭ほどいたことになる。
その後1頭を残して全て訓練所に引き取られて行った。
残った犬は雄でラックと名付けたが、そのころ父が亡くなり、2頭では費用がかかりすぎるため、ラックは母の知人が引き受けてくれた。
エリーとラック
このエリーとの暮らしのころから、だんだん犬も家の中に入れてもらえるようになって、室内で犬と一緒の暮らしが始まっていた。
明日に続きます。
←ポチっとしてくれると嬉しいです♪
人気blogランキング に参加しています。