今では考えられないことらしいが、昔は放課後の小学校の校庭は公園のようだった。小さい子供を連れて遊びに来ていたり、子供たちが野球をしていると近所のおじさんが参加してたり、アイスキャンディー売りが自転車で来てたりしていたこともあった。ある日、近所のおじさんが自転車オートバイ(自転車にエンジンを取り付けたバイクで、初期のホンダの自転車オートバイの燃料タンクは湯たんぽだったとか)に乗ってやって来て乗せてくれて、校庭で運転も習った。自転車オートバイはペタルを漕いでエンジンをかける。背の届かない子は三角乗りと言って、自転車の横の三角の部分に足を入れてペタルを漕いでいたので、この自転車オートバイのエンジンをかけるのは無理だった。エンジンをかけて貰ってから操作するだけだが、嬉しくて眠れないほど興奮したことを覚えている。確か小学3年生だった。
1958年ころになると、ホンダからセミスクータ型のスーパーカブが発売され、空前のヒットとなる。近所の店がこれを所有していた。操作は自転車オートバイよりも簡単でまだ中学生の私に空地で運転させてくれた。
当時5万5千円だったと記憶している。大卒初任給が2万円程度だったから、今なら5~60万円くらいだろう。
そのころはバイクといえば商用で、まだスポーツタイプのバイクはほとんど市販されていなかった。
ホンダベンリィー(このネーミングも便利からきている)
これはヤマハのYA1通称赤とんぼ。ドイツDKWRT125のコピーといわれた。浅間山火山レースで圧勝して大人気となった。これも近所の人が所有していて走らせて貰ったが、軽快で怖いほどスピードが出たのを思い出す。
50cc以下なら14歳で第1種原動機付き自転車運転許可証を取得できた。50cc以上250cc以下を第2種原動機付き自転車といわれた。
トーハツの50ccはスポーツタイプでもあった。これは自動遠心クラッチ式ではなく、クラッチレバーを操作しなければならなかった。
ついに
買った買ってもらったバイク。まだバイクのディーラーなどはなくて、自転車屋さんが注文を取って販売していた。田舎ではまだ珍しかったせいか、引き渡しをする時にその自転車屋さんが名残惜しそうにしていた。
ホンダスポーツカブ。
このころ発売されたベンリィースポーツCB92。これを借りて乗ってから大きいバイクに乗りたくなる。月光仮面がこれを運転していた。
250ccのバイクに乗るには軽自動車免許が必要。16歳になったその誕生月に免許を取得した。
免許取得後最初に乗ったヤマハYES2。
このころホンダはマン島TTレースで上位独占していた。排気の煙が出るヤマハのツーサイクルエンジンに対してホンダは4サイクルで排気煙も出ないし、この4サイクルエンジン音が好きになった。
そこで手に入れたのがホンダドリームスーパースポーツCB72。当時18万7千円だったと記憶している。大卒初任給の6か月分位か。
モトクロス用のバイクのない時代で、これはオンロードもオフロードも走れると人気だった。
さらに大型のバイクに憧れ自動二輪車免許を取得した。
試験はこのメグロ(その後カワサキに吸収された)だった。
最初に乗ったのが古いキャブトンだった。
陸王はハーレーダビッドソンのアンダーライセンス車で、燃料タンクの左側にギアチェンジのためのハンドシフトレバーが付いていて、クラッチはペタル式だった。左側にあるペダルの後ろを踏み込むとクラッチがきれ、ペダルの前を踏み込むとクラッチがつながる。つまり ペダルの後ろを踏みクラッチをきりハンドシフトのアームを動かし1速へ。そしてペダルの前をゆっくり踏み込みながらクラッチをつなぎ同時にスロットルをひねってスタートする。当時の白バイはほとんどがメグロとこの陸王だった。
近所の建設会社の社長が所有していた1960年トライアンフ・ボンネビルT120。649cc。何度か貸してもらって憧れたが、高価すぎてとうとう手に入れることは出来ずに終わった思い出のバイク。
その後30年近くバイクとは遠ざかっていたが、20年ほど前に使ってないから、好きなだけ乗っててと言われ、久しぶりにバイク乗りを楽しんだカワサキGPZ750。
これを最後にまたバイクから遠ざかっている。
今また乗ってみたいバイクは「世界最良のバイク」と評された名車中の名車あのトライアンフ・ボンネビル。
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